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しかたのない蜜

しかたのない蜜

神域の花嫁 41~45

またもや涙ぐむ凛太郎に、秀信が不意にフッと笑った。
「ごめんなさい、僕、男なのに先生の前で泣くだなんて……おかしいですよね」
「いや、違うのだ」
 秀信は遠い目をして、星空をあおいだ。
「お前の泣き顔が母親にそっくりだと思ってな」
「母親って? もしかして僕の……母さんのことですか?」
 凛太郎の声は大きくうわずった。自分の大声に、祥が驚いた表情をしているのを恥ずかしいと思う余裕もなかった。
 凛太郎の母親、清宮明子に関する情報を凛太郎はほとんど知らない。知っているのは明子がホステスをしていたということくらいだ。なぜか明子の写真もほとんど残っていなかった。
「ああ」
 秀信はうなずいた。
「私はお前の母親、清宮明子ーーーー旧姓、弓削明子の従弟だ」
 凛太郎は瞠目した。秀信は凛太郎に微笑みかけた。
「実は、私は母上のことを調査しているうちに、お前の存在を知ったのだ」
 凛太郎は息を飲んだ。
「お前のご母堂はーーーー、私は明子さんと呼んでいた。明子さんは、お前の父上との交際を反対され、弓削家を後にされたのだ。家出同然の形でな。たいそう優しく、気品があり、そして強い方だったよ。私のこともよく可愛がってくれた。お前にとてもよく似ている。性格も、容貌もな」
 秀信はしばし黙ってから、口を開いた。
「お前はご母堂が水商売に手を染めていたということで、杉原などからからかわれて、かなりいやな思いをしていたようだな。だが、気にすることはない。いや、むしろ誇りにしてもいいはずだ。なぜなら、明子さんはーーーーお前の母は、経済的にお前の父親に迷惑をかけたくないとの理由で、結婚までの一時期、ホステスで生計を立てていたようなのだからな。その芯の強さや責任感は本当にお前そっくりだ」
 凛太郎の心にたまっていた、母親が水商売をしていたという澱のような劣等感が、秀信の言葉によって、急速に溶かされていった。
「先生……先生は、僕の母さんに会ったことがあるんですよね? もしかして何か思い出とか……」
「ーーーーそうだな。私は、お前の母さんとよく一緒に、晴れた日に散歩したものだ。ふたりっきりで、こっそり夜桜見物に行ったこともある。屋敷のものがうるさいのでな」
 秀信は、軽く目をとじながら言った。
「夜桜の下、お前の母さんは言っていた。綺麗だ、と。もしこんな真っ白な心を、みなが持っていれば、この世には争いなんて起こらないのに……とな」
 なぜか、そこで秀信の声は沈んだ。
 凛太郎が、秀信になおも質問を続けようとした時、屋上の入り口から、凛太郎を呼ぶ声がした。
「おーい、凛太郎。教室の修理やら、みんなの記憶消しやら全部やっといたぞ……何だ、テメェ。凛太郎ちゃんにベタベタしやがって」
 鬼から人間の姿に変化していた明は、凛太郎の肩に手を置いていた秀信を見て、まなじりをつり上げた。
「貴様! 秀信さまにそういう口の聞き方は…」
 祥が立ち上がって、明に抗議しようとするのを、秀信が制する。
「いいのだ、祥。このお方は、いにしえの時より凛太郎を守ってこられた鬼神さまなのだからな」
「そうですか?」
 祥は少し不服そうに、明を横目で見た。明はしてやったりと笑みを浮かべる。
「へーんだ、あんた、よくわかってんじゃん。さすがは陰陽師だな。道理で俺の記憶消しの術が効かなかったわけだよ」
「お褒めの言葉、ありがたく頂戴する」
 秀信は芝居がかった仕草で、頭を下げた。「蒼薙殿。いや、今の名前は”明”なのかな? 我々とともに戦ってくださることをお願いする」
「ヤダね」
 きっぱりと明は言った。
「明……」
 凛太郎をさえぎって、明は言葉を続けた。「俺ァ、どうもあんたが気にくわねえ。まあ、もともと陰陽師ってヤツも、権力者の手先みたいな手合いが多くて嫌いなんだがよ。それに、あんたのそのこそこそ裏でかぎまわってるみたいな所が嫌いなんだよ」
 明のズケズケとした物言いを、凛太郎はハラハラしながら見守っていた。秀信は落ち着きはらって、明の言葉を聞いていた。
 祥は腕組みしながら、明を見やっていた
「どうせ蒼薙って俺のもとの名前も、どっかで調べてきたんだろ。そこまでかぎまわってたんだったら、今度の騒動が起こる前に、凛太郎ちゃんを守ってやればいいじゃねえか。凛太郎が鈴薙にはらまされる前によ!」
「明!」
 凛太郎の悲鳴のような声に、明はさすがに口がすべったと思ったようだった。
「ごめん」
 明は一言そう言って、うつむいた。
「はらまされた……とは?」
 祥が怪訝そうにつぶやく。秀信も不思議そうに眼鏡のふちをあげながら、凛太郎に視線を落とした。
 凛太郎は、もうこらえきれなかった。頬から涙がしたたり落ちるのを感じた。
「せ、先生……。あの、みんなに張り付いていた勾玉っていうのは……僕の子供なんです」
 凛太郎は声を震わせながら告白した。
 もう、秀信の顔を見る勇気はなかった
 このままこの世から消え去ってしまいたい。
 そう思いながら、凛太郎は頭の中で言葉を探した。今言わなければ、自分は永遠にわだかまりをかかえたまま、秀信と接してしまいそうだった。
 教師として尊敬しており、そして自分と血縁のある秀信にそんなものを抱えているのはいやだった。
 凛太郎は、屋上のコンクリートの床を見つめながら、声を絞り出した。
「ぼ、僕のところに……鈴薙っていう綺麗な男の人が現れて……その人、僕が小さい頃、泣いてた時、なぐさめてくれた人にとってもよく似てたから……なんとなく気を許しちゃって……」
 ここから先はほとんど言葉にならなかった。凛太郎は泣き伏しそうになるのを必死にこらえながら、話し続けた。どうしても、声に涙がにじむ。
「そこまで言わなくていい、凛太郎。俺が……」
「明は黙ってて」
 凛太郎は涙をぐい、と手の甲でぬぐいながら言った。明は不服そうに口を閉じた。その双眸は、心配そうに凛太郎を見つめている。
 祥は驚いた表情をしていた。 
 秀信はいつもの通り、冷静な様子だった。眼鏡の奥にある双眸は、ひたと凛太郎を見据えている。その目を凛太郎は怖くて見られなかった。
 だが、勇気をふりしぼって顔を上げた。
「それで、僕、いつのまにか頭がぼうっとしてきて、気が付いたらーーーー鈴薙さんの腕の中にいたんです。男の人と、そんなことするのって嫌だったはずなのに、なんか……なんか気持ち良くなっちゃって……心が安らぐっていうか……次に、次に気が付いた時には、杉山さんたちがそうなってたように、僕の胸にもあの勾玉が張り付いてたんです。先生も見たでしょう? 」
 凛太郎はついにこらえきれなくなって泣き出した。
「ぼぼ、僕、僕……僕が全部悪いんですっ!」
 そこまで言い終えて、凛太郎は「ごめんなさい!」と叫んでから、土下座した。
 明が深く嘆息するのが聞こえた。
 冷たいコンクリートにひれ伏しながら、凛太郎はこのまま秀信に蹴り殺されて死んでもいいと思った。
 星くずが流れ落ちるのが聞こえるような沈黙が、どれくらい続いただろうか。
 凛太郎の体は、あたたかくて大きなものにつつまれた。
「せ、先生?」
 凛太郎はくぐもった声をあげた。凛太郎の鼻先を、秀信の背広から漂ってくるナフタリンの香りが覆った。秀信の冷たい頬の感触が、涙に濡れた凛太郎の頬を心地よく醒ました。
「よしよし」
 秀信はやさしく凛太郎の髪をなでた。ちょっと困っているような、それでいていとおしさがにじんだ声だった。
「泣くことはない。そして、謝ることもない」
「だ、だって先生……僕のせいでみんなが……」
 秀信は凛太郎のしゃべり出そうとする唇を封じた。
 凛太郎の唇に押し当てられた秀信の人差し指は、ひんやりとしていて清らかだった。 その感触に、驚いた目をする凛太郎に秀信は微笑みかけて、その人差し指を離す。
「お前を抱いたその男性は、ただの人間ではなかっただろう?」
「はい……頭に二本の角が生えていました。だいたい僕が……」
 代々、鬼護神社に伝わる刀の封印を解いたから、その鬼は現れたんです。凛太郎がそう言う前に、秀信はその言葉をさえぎった。
「そのお方は、鬼神さまだ。いにしえの時、我らが人と鬼とはともに暮らしていた時代があった。彼らは人よりもはるかに優れた能力と生命力を持ち、美しい存在だった。だが」
 そこで秀信は悲しそうな目をした。
「我らが人があまりにも愚かゆえ、人を嫌い、滅ぼそうとした鬼神さまもいたのだ。悲しいことに、その数は徐々に増え、最後には人の味方をする鬼神さまよりも多くなってしまった。おそらく、その鬼神さまはそういった考えの持ち主なのだろう」
「だから、凛姫が……」
「そうだ。凛姫さまはその鬼神さまを刀に封印したのだろう」
 秀信は凛太郎の肩をふたたび抱いた。
「おそらく、封印された鬼神さまが、ふたたびよみがえって来られたのは、今の世が乱れているからだ。あの山を見ろ」
 秀信は、この校舎の裏側にそびえ立っている乙女山を指さした。凛太郎が目を向けると、乙女山は闇の中に黒々とその存在を誇示していた。
「あの乙女山は、古代から伝わる霊山とされている。ああいった山々には、聖なる気が満ちていて、我らを守っていてくださるのだ。それが、このたび切り開かれるというではないか。それもくだらない金目当てのリゾートホテル建設とやらでな」
 秀信は薄い唇をゆがめた。眼鏡の奥の双眸は、静かだが深い怒りを見せていた。
「こういったことが、今の日本、いや世界各地いたるところで行われている。きっと鬼神さまはそのことで怒られたのだろう。そして、人を罰しようとされているのだ。それに凛姫の封印も千年の時を経て、かなり弱くなってきているのだろう。第一、数々の環境破壊のために、今の世は気のバランスが崩れているからな。聖なる力が弱まりやすい」
「そういえば……」
 凛太郎は震える声で、相づちを打った。
「あの鬼は……鈴薙さんは、人間どもを滅ぼすって言ってました」
「ーーーーそうか」
 秀信は重々しくつぶやいた。
「僕たち、いったいどうすれば……」
「凛太郎さま、さきほども申し上げましたが、私どもとともに戦っていただけないでしょうか」
 それまでじっと話を聞いていた祥が、慎ましやかな口調で、口をはさんだ。
「祥」
 秀信はキッ、と祥をにらんだ。
「凛太郎が弓削家に協力するかどうかは、あくまで凛太郎の意志だ。私は、鬼や妖との厳しい戦いに、凛太郎を巻き込むのはしのびないと思っている」
「ーーーー申し訳ございませんでした。私はただ、人々を救いたいがために、凛太郎さまにお願いを……」
「祥! 凛太郎の気持ちも考えろ、と言っているのだ」
 祥が口をつぐみ、頭を下げようとした時だった。
「先生」
 凛太郎は、すっくと立ち上がった。 
 秀信が、眼鏡の奥の双眸を見開いた。凛太郎は、しゃがんだままの秀信に手を差し出した。
「僕、やります。先生たちと一緒に戦います! みんなを守るために、世界を救うために!」
「凛太郎……」
 秀信はしばし呆然としていたが、すぐに凛太郎の手を取って、強く握った。
「礼を言う。これから、私たちは同志となるのだな。だが、学校内では私たちは教師と生徒だぞ。それを忘れるな」
「はい!」
 凛太郎は心の底から微笑んだ。秀信の手のあたたかさが、凛太郎の凍てつきかけていた心を溶かしていくようだった。
 これから待ち受ける戦いはつらく厳しいだろう。
 だが、この身がどうなろうと戦い抜いてみせる。
(だって、すべては僕の責任なんだもの)
 凛太郎はその事実を今、秀信に明かす勇気はなかった。やっと得た、心から慕える師をここで失うのはどうしても嫌だった。
 だから、凛太郎は秀信に宣言してしまった。
「僕、がんばります。みんなのためなら、ううん、先生のためなら、何だってしてみせる!」
「ーーーーその言葉、しかと受け止めたぞ、凛太郎」
 秀信は、微笑みながらそう答えた。
 その笑いが冬の月よりも凍てついていることにも、明が不安げに自分を見つめていることにも、凛太郎は気づいていなかった。


弓削家、邸宅。
 その夜、秀信と祥は、秀信の自室で酒をくみかわしていた。
「神域の花嫁が、我らに味方してくれたことに、乾杯」
 バスローブを身に付けた祥が、杯を窓辺から見える月に照らしながら音頭を取った。
 眼鏡を取った秀信は、着流し姿だった。 冷えた笑いを浮かべながら、掲げた杯から酒を飲み干す。
「――うまい酒だ。どこから手に入れた?」
「あなたのおじさまの部屋からくすねてきましたよ。どうせ、どこぞの政治家から、政敵を呪い殺した褒美にでももらったんでしょう」
「あの爺さんも、あいかわらずたいしたタマだな」
 秀信は鼻で笑った。
 祥は大仰に驚いてみせた。
「あら、あなたがこの前作っていた人型には、どこぞの政治家か、高級官僚の名前が書かれていませんでしたっけ?」
「俺は、叔父貴に命じられて、あの人型を作ったまでだ」 
 秀信は苦く笑いながら、祥に杯を傾けた。 祥はうやうやしく秀信の杯に、酒を注いだ。
「しかし、あなたも人が悪いですね」
 グラスに口をつける秀信に、祥は垂れた目をいたずらっぽく輝かせて言った。
「何がだ?」
 秀信が冷ややかに問う。
 祥は肩をすくめた。
「わかっているでしょう。あの坊やのことですよ。清宮凛太郎くんのことです」
 秀信は黙って祥の話を聞いていた。酔っているせいか、祥の口はなめらかに動いた。 窓辺からさしこむ月光が、祥の昔なつかしい文学青年然とした整った顔立ちを、白く照らす。その顔に、祥は皮肉っぽい笑顔を浮かべていた。
「あの坊やは、あなたのことを尊敬すべき人間だと思っていますよ。あなたの真の姿も知らずにね。それとも……」
 祥は、首をかしげながら秀信の顔をのぞきこんだ。
「もしかして、あなたはあの子に本気で入れ込んでいるのですか?」
 秀信の眉がぴくりと動いた。いつもならすぐに口をつぐむはずの祥だが、今夜はそんな気にはなぜだかならなかった。酔いのためだろうか。
 祥は、秀信の冷たい美貌をのぞきこみながらささやいた。
「あの坊や、明子さまのお子さんなのでしょう? 私は、明子さまには直接お会いしたことはありませんが、あなたは今日、あの子に”お前は母親に似ている”とおっしゃっていましたね?」
「似ていない」
 秀信は、祥の言葉を低くさえぎった。
「明子は、凛太郎には似ていない」
 秀信のまなざしは、どこか遠くを見ていた。
 おやおや、と祥は肩をすくめてから、一口酒をすすった。
「いずれにしても、あの坊やが美しいことには変わりありません。なにせ、二人の鬼に千年の時を越えて愛されている少年ですからね。あなたも見たでしょう、あの坊やが鬼に抱かれている様を。清楚さとみだらさが極上の織物のように合わさった見事な美しさでした。あれを見た時、私は彼を犯したい、と思った」
 ふだんは穏やかな光をたたえている祥の垂れた双眸が、雄の輝きを放った。祥は唇をぺろり、となめた。
「あなたはいかがですか、秀信様?」
「――馬鹿を言うな」
 秀信は酒をあおった。たくましい喉元がごくりと上下する。
「それは嘘だ」
 祥は鳩のように笑った。
「あなたの凛太郎を見る目は、熱を帯びている。日頃、晴信様以外の人間には、とんと興味を示さないあなたがね。しかもその熱は、ひどく激しい。まるで、あの坊やに触れる自分以外の人間は、すべて焼き殺してしまいたいと言わんばかりに……」
「祥」
 秀信が、静かに己の配下の名を呼んだ。
「何ですか?」
 酔いで少し目をうるませながら、祥が答えた。
「俺は、お前など、いつでも握りつぶしてしまう存在であることを忘れてはいるまいな?」
 小さな、だが、鋭い破壊音が祥の耳を射た。
 秀信が、分厚いガラスでできた杯を片手でひび割れさせた音だった。
「――申し訳ございません。口が過ぎました」
 血の気の引いた顔で、祥が静かに頭を下げた。
 秀信は、醒めた支配者の笑みを浮かべながら、祥を睥睨した。 



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